2016年の夏に公開された「君の名は。」は日本のみならず、アジアを巻き込んで大きなヒット作となりました。
監督の新海誠さんはこの映画以外にも、「ほしのこえ」(監督)、「秒速5センチメートル」(原作・監督)、「言の葉の庭」などをヒットさせたクリエーターです。
映画「君の名は。」、「言の葉の庭」の小説を自ら手掛け、そちらもヒットとなっています。
原作も監督も務める新海誠さんの小説家としての一面を考えてみましょう。
「君の名は。」の二人称
映画をご覧になって原作も読まれた方はご存じでしょう。
原作は都会で暮らす少年・瀧と飛騨の山奥で暮らす少女・三葉の目線で描かれています。二人称だけによる物語の展開は小説ならではの手法です。
少年と少女だけで進行する物語は、読み手の想像力を必要とします。読み手の想像力こそ物語をふくらませる原動力です。
一方、映画版はというと完全に客観的にしか観ざるを得ません。観客を意識した作り方です。
それは映画的手法と小説の手法の違いですが、その手法の違いを意識して用いたあたりに、新海誠監督の小説家としての自信が垣間見えるのです。
「ずっと小説に片思いしていた」
「言の葉の庭」のあとがきに新海誠監督はそんな言葉を残しています。映画では実現不可能な表現が小説なら可能という意味でしょうか。
小説「言の葉の庭」では登場人物それぞれの視線で描かれ、映画版とは違った趣があります。
ここで新海誠監督は物語の多層化を試みています。
映像では、視点が変わると観る人にとっては場面転換を強いられます。しかし、小説の中で視線が変わっても読み手のペースで物語が進められるため、映像世界ほど読み手に負担はありません。
映画では難しかった登場人物の内面を、小説では視線を変える事で描き切る事に成功しました。
また、小説の中では、視線が変わる事で読み手はより登場人物に移入し易いという利点もあります。「君の名は。」で用いられた映画と小説の視点の変更は、「言の葉の庭」でも効果的に用いられているのです。
そうした小説的手法と映画的手法の双方を駆使する新海誠監督は映像クリエーターでありながら、小説にインスパイアされた新世代の監督かも知れません。
映像美ということ
新海誠監督の映像美には定評があります。
細部にまでこだわった美しさや象徴的に用いられるモチーフは映像という連続した時間の中で、1枚の写真のように切り取られた美しさの表現に使われています。「秒速5センチメートル」でもそうした一瞬の美しさを映像化しているシーンがありました。
映像という世界ならではの強みですが、そうした映像美をどうしたら小説の中に表現出来るかをまた新海監督は腐心しています。
言葉の持つリズム、特に日本語のリズムに着目した「言の葉の庭」では万葉集の歌が用いられ、新海監督が言葉を大切にしている事が伝わって来ます。「万葉集」という日本人なら誰もが学校で一度は通る歌集を元に、言葉から喚起される映像を実現しています。
美しい映像の元が美しい日本語である事が小説と映画から再確認出来ます。
言葉から喚起される映像と映像を言語化する試み。
新海監督の目指す所が見えてきました。
小説家か映画監督か
映画の原作者が小説家であることは今までも珍しいことではありません。
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今回、新海監督が映画を成功させ、原作(小説)もヒットさせた事は大きな意味があります。小説家と映画監督の両方で成功したケースが少ないからです。
小説は個人技、映画はたくさんの人の手を必要とする団体競技に例えられるでしょう。それでも、新海監督は「最後には小説版を書いた」と「君の名は。」のあとがきで述べています。
それは、小説家・新海誠の意地でもあるのでしょう。
この先が楽しみな小説家さんです。