宮下 奈都著「羊と鋼の森」は2016年の本屋大賞、恩田 陸著「蜜蜂と遠雷」は2017年に直木賞をそれぞれ受賞しています。

方や書店員さんが選んだ本に与えられる賞、もうひとつは戦前から続く大衆文学に贈られる賞ですから、同一に語るのは無理があるかも知れません。しかし、同時期にクラシック音楽に関する小説が大きな支持を得た事は注目に値します。

今回は「羊と鋼の森」と「蜜蜂と遠雷」に見る、音楽の描かれ方を考えてみました。

音楽と文学はどう融合するのでしょうか?

 

文学の中の音楽

小説にはしばしば音楽が登場します。例えば村上春樹さんの「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では フランツ・リストのピアノ曲集「巡礼の年」がモチーフとして登場しますし、初期の作品「1973年のピンボール」にはリッキー・ネルソンの「ハロー・メリー・ルウ」を時代背景の説明として用いています。

ここでは、音楽を小道具もしくは物語の底辺においていますが、「羊と鋼の森」と「蜜蜂と遠雷」は音楽の扱い方が今までとは違っています。

 

「羊と鋼の森」の舞台

タイトルだけでは、音楽の要素は読み取れませんが、内容はピアノ調律師を目指す若者を描く物語です。羊の毛で作られたハンマーが鋼の弦を叩く事で音を発する、ピアノという楽器の音が森の木々のようにあふれる様をタイトルに掲げた作品です。

実際、ピアノ調律師を目指す主人公・外村青年は森の多い町で生まれ育ちました。

木々が風に揺れる音、エゾマツが水を地下から幹に吸い上げる音、森の中のカケスが鳴く声。そうした森が発する音を聞いて「ピアノは森から生まれたのかも知れない」と感じるようになります。自然の中に音楽を見出しているのです。

 

コンクールが舞台の「蜜蜂と遠雷」

一方、「蜜蜂と遠雷」は国際的評価の高いピアノコンクールに挑戦する若者たちの物語です。

ピアノコンクールというと、小さな頃から英才教育を受け音楽大学や留学までする音楽エリートたちを想像しがちだと思います。「蜜蜂と遠雷」には、もちろんそうした音楽エリートも登場しますが、注目したい登場人物がいます。

作中では「蜜蜂王子」と呼ばれる天才少年・風間塵、コンクールの年齢上限制限いっぱいの妻子ある二十八歳・高島明石、一度は栄光をつかんだかに見えた元天才少女・栄伝亜夜。
海外の音楽院から参加する若手ピアニストたちと異色ともいえる登場人物たちが、それぞれの音楽を奏でます。

中でも、音楽の専門教育を受けた事のない風間塵の一言が印象的です。

「音楽を外に連れ出すんだ」

彼もまた、音楽を自然へと開放しようとしているのです。「羊と鋼の森」の外村青年との不思議な共通点です。

 

音楽の定義

コンクールが競うものはなにか

「蜜蜂と遠雷」ではピアノコンクールの模様が描かれます。

コンクールは一部のクラシックファンのためのもの、という今までの常識を破るべく、コンクールの非情な部分も丁寧に描かれています。「コンテストに落ちても各自の音楽性を否定するものではない」と。

では、コンクールとは一体、音楽の何を競って優劣をつけるのか。そうしたコンクールへの批判めいた疑問を本作は世に問います。音楽は競うべきものなのか、と。

 

人生において音楽とはなにか

一方、「羊と鋼の森」には音楽、音を追い求めて苦悩する若者たちがいます。
ピアノを調律するために、どう音楽と向かい合うべきか悩む外村青年。
ピアニストを目指す事を決めた双子姉妹の姉、和音の決意の言葉があります。

「ピアノで食べていこうなんて思わない。ピアノを食べて生きていくんだよ」

この言葉には、悲壮感はありません。誰かを蹴落としてのし上がっていくのではなく、音楽を自分の中に取り入れよう、音楽の中に飛び込もうという意思の強さが感じられるのです

 

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常に音楽とともにいたいと願う。

それが「羊と鋼の森」と「蜜蜂と遠雷」に共通する音楽の在り方ではないでしょうか。

 

文学と音楽

人には食べ物と水が必要です。文学と音楽がなくても命をつなぐ事は出来ます。
それでも、人間は文学と音楽を生み出しました。
人が人であるために、必要な何か。

それが、文学であり音楽であり、芸術という形のない概念なのでしょう。

 

 


 

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